てらこ、禅的に考えるブログ

なんちゃって仏教徒「てらこ」が目にする社会、人、音楽、本などそのほかいろいろとてらこが興味をそそったモノゴトについて禅的に解決できるか試行(思考)錯誤するブログです。ときどき禅的に考えない場合があります。

ゆがんでいる身体を整えることを禅的に考えてみるとこうなった。

からだの歪み。

生きていれば、大抵の人が歪んでますよね。

座り方のクセや立ち方のクセ。

寝るときの姿勢なんかも、

「こうすると楽なんだよね」という姿勢があると思います。

 

てらこもその例に限らず、

歪んでいます。

そりゃもう、結構重症です。

 

座ったら脚を組みたくなるし、

猫背にしたいし、O脚で脚なんか出せたもんじゃないし、

寝るときの姿勢はいつも右側を下にしないと

しっくりこない。

 

おかげで、腰痛・肩こり、果ては頭痛にも悩まされる始末。

 

これではいかん!!いかんですぞ!!

 

ということで、

何度かお世話になっている整骨院へ通っている次第です。

 

いろんな整骨院を試しましたが、

今通っている所の先生は、これまでで一番腕のよい先生。

お値段も良心的だし、

しかもひどく痛むところは本当に治っちゃう。

10回くらい通うと、

「はい、てらこさん、もう来なくていいよ」

と言われます。

 

行く度に、脚が長くなるんですよね。

まぁ、縮んでいるのを伸ばすだけなのですが、

なんかいい感じ。

しかもむくみもなくなるし、体重は減らないけど、

全体的に細くなるんですよ。

整うから見た目が変わるんでしょうね。

 

禅的に考えてみるとこうなった。

瞑想をするときは、まず背筋を伸ばし、鼻から呼吸して

静かに吐き出す。

それを繰り返す。

そのうちに頭のなかでさまざまなことが

ごちゃまぜになって、ぐるぐるーぐるぐるーするのですが、

そのうち、

「ぽかん」

と空白の時間が出来て、

鐘が鳴るまで「放心」、いわゆる心を手放している状態を

体験することがあります。

 

それを経験するためには、

やはり正しい姿勢が必要なのです。

呼吸を整えるためには、まず姿勢。

姿勢が正しくできていないと

その体験がおとずれることなく、

ごちゃごちゃの心を行ったり来たりするのです。

これはあくまでてらこの体験談なので、

他の人は違うかもしれませんが、

あながち間違いではないような気がします。

 

よって、

姿勢は正しく、美しく。

普段の生活でも、ちょっとだけ骨盤を立てるだけで

自然と背筋が伸びます。

腰痛には悩まされたくないし、

心も健康でありたいですよね。

 

瞑想は簡単にできます。

10分でもやってみてください。

初めての人は、10分間は結構しんどいです。

じっとして、なにも考えないようにすることは

考えているより意外にできないのよ。

でもそれができるようになると、ちょっとだけ

自分の中で何かが変わったような気がするはず。

 

ブッダの幸せの瞑想

ブッダの幸せの瞑想

 

 

ぜひお試しあれ。

 

おわり。 

 

中二病を患うことを禅的に考えたらこうなった。

中二病は永遠の中二ってことでOK?

中二病という言葉はよく使うし、聞くけれど、

ちゃんと調べたことがないから、Wikiさんに聞いてみた。

 

 

中二病 - Wikipedia

 ラジオ番組『伊集院光のUP'S 深夜の馬鹿力』で生まれた造語。

 

知ってた??

てらこ、まったく知らなかった!!驚いた。

 

伊集院さんはWikiさんの言うところによると、

コーナー終了後に起きた意味合いの変遷について、伊集院本人は「もう僕の作った時の意味と違うから言葉自体に興味無いです。」と語っている。

らしいです。

意味が変化していってるのですねぇ。ほぉ。

 

 

 

コトバンクさんの説明のほうがわかりやすい。

kotobank.jp

 

一過性の病気にたとえたもの。

 

そうなのです。

一過性の病気なのです。

 

 

・・・

 

 

てらこ、読んでみたんですよ。

今話題になっている元少年Aの本。

 

40ページくらい読みました。

それから、字を読まずパラパラ~とめくって、ゴミ箱行き。

 

よくもまぁ、

出版社もこんな独りよがりの甚だしいモノを

恥ずかしげもなく、「社会的に意義がある」と言えたなと。

 

しかも編集をほとんどしてないというじゃないですか。

これ、元少年Aだから編集してないんでしょ?

あまやかしてどうすんねん。

本当に、本気で、彼を社会で生かそうと思うなら、

出版社として文章を指導するべきでした。

 

この程度の文章なら、ブログ掲載で十分ですよ。

そんなに表現したいなら、

そんなに自分の身の上を世間に公表したいなら、

ブログに「元少年Aの手記」としてほそぼそ書いたらいいじゃないですか。

そして、一部の下劣なマスゴミに取り上げていただいて、

話題殺到になってからの書籍化でしょうに。

 

 

「自分はこんな文章が書けるんだ」

「自分はこんな表現を描くことができるんだ」

「自分は本当は普通のどこにでもいる子どもだったんだ」

「自分は書かなきゃいけないんだ」

「自分は・・・・」

「自分は・・・・」

「自分は・・・・」

 

 

こんな調子。

もちろんあくまで「手記」なので、

自分のことを語る本ではあるのだけれど、

まったく客観性に欠ける。

まったく自分を俯瞰してみていない。

いや、俯瞰していると思い込んでいるだけで、

「自分」を見ることができないのかもしれない。

 

ああ、この人は30すぎても中二病を患っていて、

悪いことをしたということは頭で理屈として理解していても、

本質的に理解できる人ではないのだ。

ある一定数必ず存在する、

どうあがいても倫理観が欠如してしまう人なのだ。

一過性の病気が永遠と続く人なのだ。

 

この本は、中二病の子どもが読んだら、

強烈に賛同するだろうなぁ。と。

さらに崇拝するだろうなぁ。と。

そんな予感があります。大丈夫かな。

 

中二病を禅的に考えてみたけど。

現代ではうつ病精神疾患などの病名がありますが、

時代をさかのぼると、日本では、

うつ病などは「呪い」として恐れられていたようです。

病名がなく、奇怪なモノとしての認識だったのでしょう。

うつ病を発症している人に対して、

「祟りじゃあぁぁぁ」と納屋に閉じ込めたり、

下手したら村全体で抹殺していたのかもしれません。

 

 

かの有名な吉田兼好さんの徒然草にはこうあります。

tsurezure.choice8989.info

 

ここでは第134段の「高倉院の法華堂の三昧僧」を取り上げる。

まさに、この段には元少年Aの愚かさが代弁されています。

 

 自分自身の非を知らないので、他人が自分を悪く言っていることも当然知るはずがない。

 

自分自身を全く知らないということにはならないであろうが、知ったところでどうすればいいかを判断できないので、全く知らないのと大差ないのである。

 

そもそも他人に愛されていないのに、人々の間に立ち混じって交際することは恥ずかしいことなのである。

容貌が醜く、分別もできていないくせに出仕し、バカなくせに学才ある人と交わり、芸事が下手くそなのに上手な者と同席し、頭は白髪で真っ白なのに若い人の間に並び、ましてや自分の力の及ばないレベルのことを望み、実現できないことを悲しみ、来ないものを待ち、他人を恐れ媚を売るのは、他人から与えられた恥ではない。

 

欲深い心に導かれて自分で自らの身を辱しめているのだ。
欲を貪ることを止めないのは、命が終わる一大事が今ここに来ていることを全く自覚していないからなのである。

 

 

聡明な方なら、言わんとすることがすぐさま理解できると思う。

 

中二病は一過性なら、多少の差はあるものの、

誰もが通る通過点。

継続されてしまえば、ただのイタイ人なのである。

 

この継続性を仏道が救えるのか。

それをてらこは知らない。

 

真実はいつもひとつ ではない かもしれない ことを禅的に考えてみたらこうなった。

 真実はいつもひとつ!

 

名探偵コナンの決めゼリフ。

 

 

 

 

そもそも真実ってなんでしょうね。

kotobank.jp

 

元はシンジチって読んでたのね。知らなかった。

 

デジタル大辞泉を採用。

1.うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。

2.仏語。絶対の真理。真如。

 

確かに、コナンくんの言うとおり、

本当のことはひとつだけ。

そのとおり。

 

でも、ご承知のとおり、

真実が正しいかは別問題なのです。

 

善と悪、正しいと誤り、天使と悪魔、

仏陀と俗人、勝ちと負け、自立と依存、

同じと異なる、右と左、長いと短い、

近いと遠い、原理と応用、上と下、

開くと閉じる、内と外、未知と既知・・・・・・

 

世の中には相反し、対立するものが無数にある。

そして、それらはすべて存在するものであり、

視点をずらすことで、常に真実である。

と、てらこは考えます。

 

たとえば、宗教はいい例。

宗教はたくさんの知恵が詰まっています。※新興宗教については関知しません。

宗教にはたくさんの妄想がはびこっています。

宗教にはたくさんの原理原則が示されています。

 

本当かどうかは関係がなくて、

それを信じるか信じないか

実践するか実践しないか

 

極端に言ってしまえば、

ただ、それだけ。

 

その人にとっての真実か否か。

 

ただ、それだけ。

 

それが正しいのか正しくないかも

他人にとってはどうでもよいこと。

 

キリストいわゆる救世主が本当に実在したのかも

現代人にはわかりようもない。

いくら文献があるとはいえ、それが本当かはわからない。

文献の著者が卓越した悪意あるストーリーテラーの可能性だって

捨てきれない。

でも、現代人の中には文献が真実だと信じて疑わない人がいます。

 

仏陀も本当にいたとされていますが、

本当にいたんだと信じる人には本当にいたんでしょうし、

いるわけないじゃんと疑う人にはいないのでしょう。

 

それでよいのです。

その人にとって真実であれば、それでいい。

 

本当にそれでいいのか。

ただ、それだけ。

果たして本当にそれでいいのか。

 

すべての事象に関して、

それでいいとしてしまうと、

人間の中にある一定数は必ず存在する、倫理観の欠如した人間が、

「タダシイ ト オモウカラ ヒト ヲ コロス」

と、人を殺害する。

殺害された人間からすると悪で、

殺害する人間からすると善なのです。

 

殺害する人間の発言をニュースなどで

こんな答えを見聞きすることがあります。

 

「人を殺してみたかった」(自分本位)

「腹が立った」(怒りの過激な暴走)

「死刑になりたかった」(自己弁護)

 

彼らにとって、これは正。

自分の欲望を果たすために、必要な善。

 

人間は社会的な生き物です。

社会的に許されぬものなのに、

人類が社会性を持ち始めてから、

人が人を殺すことは当然に、

世界中で、途切れることなく、行われてきています。

 

儀式のための生贄。

魔女狩り。

切腹

戦争。

自殺。・・・・・・

 

これらを現代に生きるてらこは、

肯定する気はさらさらないし、

気持ち悪くて吐き気がしますが、

歴史上継続的に行われてきており、現在進行形。

 

「悪」の側面からみると、

ただ、それだけ。

となりうるのではないか。

 

禅的に考えるとこうなった。

 「ただ、それだけ」というのは、

曹洞宗の始祖、道元禅師が修行の末たどり着いた、

「只管打坐」(しかんたざ)という教えに

ほんの少しだけ近いかもしれません。

 

只管打坐とは、

ただひたすらに、座禅をする。

ただひたすらに、坐る。

ただひたすらに、生きる。

 

ただ、それだけ。

という言葉には

少し達観しているというか、少し傍観者的なニュアンスが

含まれているように感じます。

 

少しだけ、自分からいろんなものと一定の距離をとって、

 自分にとっての真実とはなにか。

 

に思いを馳せることで、

ただ、ひたすらに生きよう。

ただ、ひたすらにそれだけ。

 

真実はいつもひとつだけど、

真実はいつもひとつだけじゃないかもしれない。

真実は人によって異なる側面がある。

 

「人が人として生きる」ことは、

究極の、たったひとつの、真実なんだろうなぁ。

 

と思うわけです。

 

 

おわり。

 

 

 

てらこのコナン劇場版で一番のお気に入りは、

ベイカー街の亡霊です。